2010年11月13日

「『教養』とは何か」

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「『教養』とは何か」 阿部謹也

評価:2.7

教養とは何かというテーマに歴史的観点からアプローチした本
元一橋大学の学長である方の新書

「教養」とは何か (講談社現代新書)「教養」とは何か (講談社現代新書)
阿部 謹也

講談社 1997-05-20
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目次
序章 建前と本音


第1章 公共性としての「世間」


第2章 「世間」のなかでいかに生きるか
個人の教養と集団の教養 個人の今日の歴史的展開 文字によらない教養ー身ぶりの世界 魏の君子の生き方


第3章 個人のいない社会
サガに見る個人と社会 サガの世界と日本の「世間」


終章 「世間」と教養





結論からいうと、正直タイトルから想像した内容とは違っていた

「教養」とは何か、を論じているというよりも歴史的な観点からどのように「教養」というものが移り変わっていったか、というイメ
ージの方が正しいだろう

実際著者の経歴をみると

1935年生まれ。一橋大学経済学部卒業、同大学院社会学研究か終了。元一橋大学学長。専攻ドイツ中世史。

とあるように歴史の専門だから仕方がないのだろう

著者によれば、「教養」と「世間」はきってもきれない関係にあるとのことで、第1章ではその点について論じられていたが、正直あまりピンとこなかった

前著に「世間とは何か」という本があるがそちらを読んでいなかっただろうかわからないが、なかなかわかりにくかった


ところで、ポイントである「教養」の定義は次のようにある

「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のためになにができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」を「教養」があるというのである

正直これを読んでピンとくる人は少ないのではないだろうか
歴史的には

教養とは本来「いかに生きるべきか」という問いに対して個人が答えようとするところで始まったものであった

とあり、実際こちらの方が腑に落ちる
しかし古典を読むことが教養である、という風に定型化されてしまったという

じゃあなぜ古典を読むことが教養につながるのか、という点に関しては残念ながら詳しい記述はなかった

「教養」とはなにか、について身近な例で説明し、教養の本来の意味を説くような内容を期待していたぼくにとっては正直期待はずれだった

もしかしたらぼくの読み方がわるかったのかも知れないが、「成功術 時間の戦略」によると難しい本は書いた人がわるいらしいので、また他の本を探すことにする


ところで、今のぼくにとっての「教養」とはなにかと聞かれたら、イメージとしては「自分の頭で考え自分の言葉で説明できる人」だと感じる

プラトンやシェークスピアを読んでいる人が教養を持っている、ということではなくて、そうした古典は一つのプロセスなのではないだろうか

本書にもあったように「いかに生きるべきか」というのが教養の出発点であったわけだが、自分自身で価値判断ができるような人をぼくは教養があると感じる

美術も音楽もすべてそうだ
他の人がこういっているから、ではなく「自分」が主体になっている点

もちろんそうしたすべてを一から考える人がいるわけもないので、先人の知恵を借りることが古典を読むという教養を身につける「プロセス」であることは否定しないが、そこが「目的」ではないとぼくは思う

そういう観点から考えるとぼくはまだ人生の教養課程1年生だろう


未だ教養が何かもわからない身だが、一つ一つ自分にとって「教養とは何か」考えてみたい


Kindle

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